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癒しの杜

美しい日本を取り戻す 随神の道 子供達に日本の素晴らしさを伝えます。

民主主義の危うさ

前回「哲学ってな~に」というタイトルでお話した哲人が、行う政治が「哲人政治

それが、世の中を治めていく一番良い、理想の政治だと言いました

 

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 その哲人っていう人はどんな人か! というのは、洞窟の比喩でお話したように、壁をぼーっと見ている人が一般人で、一人だけ真実に気づいてしまった人だとお話しました

 

「気付く、気付かない」という点以外にも、哲人と非哲人との間には大きな差があるのです

まず、そのお話から致しましょう 対話篇「国家」の中に出てくる、これも本当に分かりやすい比喩です

 

「社会、国家」というものがどんなものであるか 考えてみましょう

 

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プラトンが描いた「社会、国家の構造」=「人格の構造」

国家というものをまず、一個の「丸」で表します 次にその丸の真ん中に小さい丸を書きます さらに、その丸の中にもっと小さい点みたいな丸を一個書きます

 

プラトンは社会は上図のようになっていると言っているわけです

 

この絵の大きな丸の大半を占める部分にあるもの、これが「大衆」、いわゆる普通の人達、洞窟の比喩で言うところの「壁をずーっと見続けている人達」です この部分は、例えて言うと「怪物」の領域だと言われています

一方で、この真ん中の小さい点が、これが「哲人」です これを象徴するのが怪物と対比される存在としての「人間」です

そして、この哲人=人間と大衆=怪物との間にいるのが者たちが「守護者(兵士)」と言われます

「ライオン」で象徴されます

社会というのは大体こんなもんだというわけです

 

洞窟の比喩で言うところの「壁を見続けている人たち」は怪物のようなもので、何が真実で、何が正しくて、何が美しいのかもよく知らないで、ただただ自分の欲望のままに動いている、それとは逆に真ん中の小さな点のような人が哲人で怪物の知らないことを知っている人のことです

 

この比喩で、重要なのは「守護者=兵士=ライオン」の存在です

洞窟の比喩でもあったように、哲人が洞窟に戻ってきて、色々教えようとするのですが、大衆からは全く理解されず、疎ましがられる、良かれと思って「こうすべき」だとか「ああすべき」だと本当の事を哲人が口出すと「うるさい‼️」とばかりに反発、弾圧し、最後には虐待しはじめます

 

実際歴史的にもソクラテスは時の権力者に捕らえられ死刑にされました

哲人がどれだけ正しいことを言っても、それが大衆には全く通じず、挙げ句の果てには殺される運命を持っていることを示しているのです

だからこそ、ここで重要になるのが欲望の塊の大衆から哲人を守る「守護者」が必要で大切なわけです

守護者は即ち兵士で、日本では武士にあたります

これはちょうど日本では、武士にあたりお殿様を守り、武家全体が天皇をお守りしていたという構図になります

こんな事、「民主主義万歳」(民主主義が一番良い制度だ〜と思っている)的な空気が蔓延している現代日本で、なかなか言い出しにくいですよねぇ

民主主義で政治を支配している大多数の人々に向かって「お前たちは怪物だーなんの理性も持たない怪物なんだー」と言っているわけですから

 

すこし話はそれますが、プラトンは『国家』という対話篇で何故国家の話をしようとしたかというと、国家それ自体の謎を解き明かそうとしたわけではなく、もともとは「正しく生きるというのはどういうことか?」を考えたために、長い対話を始めたわけです

「正しく生きる」ということを考える為には、まず「人間とは何か」を考える必要がある、一方で「人間とは何か」を考えるにあたっては、人間よりももっとスケールのデカイ、人間と同じようなものを対象として、あれ、これを考える方がより正確にモノゴトを理解することができるだろうと考えたわけです

そして、人間とそっくりなもので、かつ、でっかいスケールなものとして「国家」を取り上げ、その国家の在り方について、徹底的に考えていくわけです

 

こうした背景のもとプラトンは「国家を一つの人格」だと考えるわけです

怪物というのか「欲望」です いわば、人間精神の9割がたは欲望で占められていると言っても過言ではないと思います

だけど、残り1割くらいのところに、ライオン=守護者の領域があります

それが、「気概」です そして、気概ののさらにど真ん中にある小さい領域が「理性」です

 

国家というものは人間の精神の全くの相似形であるのであります

 

ところで、この「怪物」=「大衆」に対する距離の取り方は西洋と東洋特に日本とはかなり違います

西洋では、大衆たちをホントに文字通り「怪物」扱いして、ほとんど人間扱いしていません 「奴隷」制度です プラトンソクラテスらの当時の哲学者たちだって奴隷がいました それが、近代の植民地主義とか、現代だったら自由主義グローバリズムへと繋がっていきます

 つまり、彼等は大衆を「怪物」と見なし、全く情け容赦ないのです

 

ところが、日本では全員が「家族」だ~という感覚を持っているので村八分だって二分は人間同士の付き合いの部分を残しているし、芥川龍之介蜘蛛の糸』の話のようにどんな人だって何らかの救済の道はが残されているのです

また、日本には奴隷制度はありませんでした

 

まあ、程度の差こそあれ基本的構造は、大衆、守護者、哲人の三階層で構成されています

例えば、今の日本の日本の政治は、しばしば「衆愚政治」と呼ばれたりしています

イメージや流行り廃りだけで選挙をやって、そこで選ばれた人気者が好き勝手に政治をやり出す そんな愚かな大衆による大衆のための政治を「衆愚政治」と言います

 

三階層のの内の一番大きな領域を占めている「大衆」が、実際の政治権力を握って、好き勝手な政治を展開しているのが衆愚政治なのです

 

というよりも、こういう構造を踏まえるなら民主主義を導入すれば、衆愚政治が起きるのは当たり前だともいえます

 

そして、民主主義でやるならその成功のポイントは、「哲人が選ばれるかどうか」という一点にかかっています 

 

さて、ここで言われている「理性」とは何かというとプラトン流の言い方では「崇高なる神の世界」(彼はそれをイデア界と呼びます)と繋がる能力の事です

真善美を見出す力こそが「理性」なのです

だから、理性は宗教的に言うと、宗教心、信仰心みたいなもので理性も宗教心も哲学も宗教も、実はほとんど区別なんてないのです

日本語で言うと「政治」という言葉は「カミと繋がる まつりごと を行いながら俗世の問題を治めていく」といえるわけです

 

さて、ここからプラトンは政治体制を五部類に分けて展開していきます

最高に良い政治制度は「哲人政治」、その次に名誉支配性や寡頭制等の仕組みです

哲人政治不能であるなら、限られた人材の中で、できるだけ哲人統治に近い政治をやっていこう、という考えでつくられた仕組みです

ここくらいまでなら、政治の中に「理性」を取り入れ、真善美の判断をどうにかこうにか下しながら、政治を進めていくことが不可能ではありません

 

そして、下から二番目の制度が「民主主義/デモクラシー」なのです

かなりショッキングかも知れませんが、2500年前から政治哲学を巡る議論の中では「常識」であったのです

民主主義なんて「ロクなもんじゃない」と言われてきていたのです

 

さらに、一番ひどいのが「独裁制」です これはつまり、欲望、俗情の塊の独裁者が好き勝手に政治をやって世の中をメチャメチャにしていく 政治です その典型がドイツのヒットラーの政治です

 

独裁制よりちょっとましなのが、民主主義で、まだ人々の心の中にちょっぴり「理性」が含まれているからです

なぜなら、大衆ー守護者ー哲人という国家の三層構造はは、欲望ー気概ー理性という、ひとりの人間の精神の三層構造でもあるからです

誰の心にも多かれ少なかれ、「理性」があるはず という状態です

人々の精神の内に埋もれている「理性」を繋ぎあわせて、互いに「共鳴」させながら政治ができるのなら、それは「哲人政治」と全く同じ政治を行うことが可能なのです

でも、それができない限り、民主政治は大きな問題を孕んでいるのです

 

多数決なんかで決めるのは正当な政治ではなく、真・善・美についての美意識や理性でもって進めるべきものが政治なのです なんてことは、ヨーロッパの上流階層の人々にとっては、常識中の常識だったのです 

日本でも江戸時代「士農工商」の階級制度はありましたけど、その士は武士の事で、守護者です で、何を守っていたかというと「お殿様」さらにその中心にいらっしゃったのが「天皇陛下」です もちろん、日本の場合は、農工商を怪物とは呼んではいませんでしたが、士や天皇がもっていた「理性」は農工商の人たちとは比べ物にならないくらい濃密なものでした 例えば、「士」の理性は「武士道」というような格好で伝えられています

 

しかし19世紀くらいから、そういう政治の体制が崩れ始め、ドンドン「民主主義」のノリに社会が変わっていってしまうのです

ドンドン政治の現場で「怪物」が歩きだしてきて、社会を支配していくような状況になってきたのです

150年くらい前から、今日のような「民主主義の害悪」が顕在化してきます

その時のキーワードが「多数者の専制」です

専制」というと「暴君」をイメージしますが、民主主義のシステム、選挙制度で理性をもたない怪物が選挙で当選するという事もあるわけです 政治家の資質に欠ける人です 

それで、そんな選ばれた人たちが「多数者の専制」を行うのです 一人の暴君ではなく、民主主義をかざし、俺たちは(私たちは)選挙によって選ばれたのよーと言って数の力によって横暴にメチャクチャな政策や法律を作ってしまうのです

 

通常の「専制」であれば、政治的な策略やらクーデターやらで暗殺やらで、兎に角暴君ひとりを代えれば、専制は終わります が、多数者の専制は、大量の怪物たちが専制をやっているのでクーデターを起こそうが、何をしようが終わらせることは無理なんです

一人を代えたところで、怪物の代わりはいくらでもいるわけで、終わらないんですねぇ

 

多数者の専制に完全に陥った国家は、もう二度と復活することはあり得ない のです

 

この「多数者の専制」に気づいたのは、フランス人のアレクシ・ド・トックヴィルという政治思想家で、「アメリカの民主政治」という本を出しました そんなの読者の中の一人がジョン・スチューアート・ミルでした 彼はトックヴィルの本に感銘を受け、真っ当な民主主義とは一体いかなるものなのか?と真剣に考え、「代議制統治論」「自由論」だとかにまとめました 

因みに、そんなミルの本を読んだのが、かの福沢諭吉先生なのです

感銘を受け、触発されて書いたのが、大ベストセラーの「学問のすゝめ」なのです

さて、ミルは「代議制統治論」の中で、民主主義がいいんだと言います なぜなら、人々の民度が高まるには一定の責任感が必要だから、民主主義はいい仕組みだと言います

何の責任もなければ、人々の民度は下がり放題に下がってしまう だから、民主主義で自覚ある國民をつくりあげ、良い國をつくっていくんだ という次第です

まともな理屈で、今の日本でもよく言われる話ではないでしょうか!

 

ミルが特に重要だと言っているのは、民主主義はいいんだけど、「直接」民主制は絶対ダメ と主張しているところです

なぜなら、政治というものは高度に複雑な専門知識を必要とすることが多いからです

一人の国民が政治の全ての項目を詳細に知り尽くす事は不可能であって、それは誰か専門的な知識を持っている人々に委ねるべきだ、と言います

そこで彼が主張するのが「代議制」、つまり「間接民主制」です

民主主義は、国民の民度を高めるためには、必要であるけどやり方を間違えると「多数者の専制」という最悪の状況になってしまう危険性があるというのです

 

だから、民主制をやるにしても最低限「間接」的なものにとどめておかなければいけないと言います

民主主義の本拠地であるイギリスで、民主主義が確立したまさにその時に「多数者の専制」は避けなければならないと その危険性も十分強く認識されていたのです

 

それで我が国日本に目を向けると、福沢諭吉先生が「学問のすゝめ」の中で、一人一人が怪物であってはならない もし、そんなことをすれば日本はメチャクチャになってしまう と警告が随所に埋め込まれています が、今となってはほとんど忘れ去られてしまっているようで、民主主義といえばかけ値なしに「とにかく、善いもんだ!」と礼賛します 少しでも民主主義に疑問を提示するようなことを言えば「お前は全体主義者か‼️ 反動主義者か‼️」などとワケのワカラナイツッコっみを入れられてしまう状況にあるのが、今の日本です

 

というわけで民主主義の危険性である「多数者の専制」が日本で完成しつつあるのです

 

いずれにしても、民主主義って近代が産み出した「自動車」みたいな側面があり、非常に便利だけど、うまく使わないと、交通事故で毎年数千人から数万人もの事故死者がでるわけです

 

だから本当は、誰も自動車なんか使わないで、皆んなでゆっくり歩いて暮らせるような町をつくることが一番良いように、政治だって本当は、民主主義なんかではなくて、立派な哲人がいて、哲人政治をやるのが一番いいんだってことを基本中の基本として理解しておく必要があるのだと思います

 

でも、なかなか立派な哲人はいないので、仕方なく民主主義やっているんだ という気持ちをもって今の日本を眺めるしかないのです

基本的な嗜みとして、日本の選挙権のある人全員に、プラトンの哲人統治とトックヴィルの多数者の専制という二つの基本概念ぐらいはしっておいて欲しいと思います

 

藤井聡著 「新・政(まつりごと)の哲学」青林堂を参照しました

 

最後までお読みくださりありがとうございます