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癒しの杜

美しい日本を取り戻す 随神の道 子供達に日本の素晴らしさを伝えます。

靖国神社参拝に思う

来週17日は靖国神社秋季例大祭が行われます

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例大祭が英霊、御霊を祀る大事な行事で8月15日はイベントみたいなもんです

靖國神社には、2465,963柱の御霊が祀られています

特に、大東亜戦争でお亡くなりになられた御霊が2,133,419柱ございます

近代日本は当に戦争の歴史で、幕末戊辰戦争から御国のために亡くなられた御霊を祀るため「招魂社」が建立されたのが靖國神社の始まりなのです

戊辰戦争から昭和の大東亜戦争まで主な戦争だけでも10もあるのです

戊辰戦争西南戦争日清戦争、北清事変、日露戦争第一次世界大戦満州事変、支那事変、ノモンハン事件大東亜戦争です

内戦も含め多くの日本人の血が流れました 靖國に祀られているのは日本人だけではありません

戦いが終われば、たとえ敵方の御霊であっても鎮魂するのが日本人の心であったのです

 

それにしても、いつから日本人は相手の労を労う、恩義に感じる心を無くしてしまったのだろうか‼️

 

一番被害が多かったのが先の大東亜戦争です

そして、対外戦争で唯一負けた戦争でした

当時の一般の日本人の多くは、日本が戦争で負けるなんて思ってもみなかったのです

凄いショックだったと思われます

 

その後、初めて我が国は外国の占領下におかれ、米国の総力戦にやられ戦後75年も経過してその効果がボディブローのように効いてきて、日本人は大和魂を失くし、腑抜けになりました

 

先の大戦で、自分達の家族、親族が関わっていなかった日本人はいなかったと思われます

誠に恐縮ですが、自分の家族ことを話しますが、父は戦中派で戦争に行っていませんが、叔父は父とは一回りも上で、大正生まれ、この時代の若者は青春を戦争に捧げました

叔父も海軍の予科練に入隊し、父も祖母に手を惹かれ呉まで叔父に会いに行ったそうです

その時の叔父の姿は凛としていて立派だったと親父が話してくれて「憧れだった」と言っていました

また、宇治山田空襲がありB−29が飛来し、親父も銃撃されて川に飛び込んだ話をしてくれました

でも、神宮は天照大御神の霊力で被害は少なかったようです

ウキペディアより引用

 最初の空襲で外宮に被害[編集]

 
外宮神楽殿(2019年〔平成31年〕)

1945年(昭和20年)1月14日午後2時53分[8]、宇治山田市アメリカ軍のB-29が襲来[注 3]し、宇治山田市で初めての空爆を行った[17]。これは、三重県で最初の本格的な空襲であった[注 4]。この空襲では1人が死亡、16人が負傷した[注 5]

推定8発の爆弾が投下され[17]常磐町の蓮随山果樹園や岩渕町の錦水橋北西詰に着弾した[8]。外宮へは5か所6発の爆弾が投下され、五丈殿・九丈殿・神楽殿・斎館[注 6]で被害があった[21]。その被害とは、軒先と戸障子の破損や板塀の倒壊、屋根に数か所の穴が開いた程度であり、軽微なものであった[22]。これを神宮は「神異」と捉えた[15]。ところが4時間半後のラジオでの大本営発表[22]では「敵は数発の爆弾を豊受大神宮々域に投下、斎館二棟、神楽殿五棟崩壊せり」とされた[21]大本営発表を受けた翌1月15日新聞は、「醜弾、伊勢の神域を汚す」、「米、鬼畜の本性を現す」と報道し[22]1月17日には大日本言論報国会の主催で「一億総憤激大会」が東京都日比谷公会堂で開かれた[16]

陸海軍による神宮防衛[編集]

この空襲を受け、大日本帝国陸軍は2月に宇治山田防空隊を配備した[23]伊勢神宮の防空と警護のため、672人の独立高射砲第5大隊と1,648人の伊勢警備隊を編成し、宇治山田市に配備したのであった[24]高射砲がどこに置かれたのかは不明であるが、そのうちの1つである高射砲の弾薬庫とされるコンクリート製の戦争遺跡伊勢市立五十鈴中学校の北側に残る[25]

またこの年の第一次兵備で動員された第153師団(護京師団)を宇治山田市周辺に置き、伊勢湾口と神宮を防衛することとなった[24]。第153師団は主力の歩兵連隊を志摩半島[注 7]、歩兵第441連隊を対岸の愛知県渥美半島に配し、神宮周辺は伊勢警備隊が防衛に当たった[24]

大日本帝国海軍も伊勢湾内への敵艦の侵入を阻止するため菅島神島沖に機雷約194個を設置、第4特攻戦隊を志摩半島に配備[注 8]した[24]

こうした手厚い防衛体制が敷かれた神社は日本で唯一であり、いかに伊勢神宮が重視されていたかが窺える[27]

続発する空襲[編集]

1月28日に艦載機が銃撃を行った[17]2月15日にも一之木町に爆弾が投下され、浜郷地域や近隣の御薗村にはエレクトロン焼夷弾が投下された[28][注 9]倭姫宮付近では焼夷弾による火災が発生した[29]。この攻撃で死者1人、軽傷者4人が発生した[28]3月14日には油脂焼夷弾20発、小型爆弾2発が前山町の山林に投下されたが、不発であり被害はなかった[28]

4月7日には一之木町(13発)や館町(8発)に爆弾が投下され[28]、山林や田で火災が起き、無人の家屋が破壊された[17]。内宮では宇治橋前の衛士見張所などで60枚のガラスが割れた[22]

P-51の銃撃[編集]

4月22日午前11時20分の空襲は約40機のP-51による銃撃であった[28]。P-51は複数の編隊に分かれて波状攻撃を仕掛け、宇治山田市のみならず、近隣の二見町小俣町城田村北浜村にまで被害が及んだ[28]神鋼電機山田工場で1棟が全焼したほか、住宅1軒、無人家屋1軒、船舶1隻が被害を受け、死者2人、負傷者14人を出した[17]。なお、この時P-51の1機が豊浜村野依に墜落している[28]

5月、6月の空襲[編集]

 
神宮皇學館大学(1941年〔昭和16年〕)

5月14日の空襲では神宮皇學館大学の建物3棟が全半焼し、市内の国民学校1棟が焼失した[29]

神鋼電機山田工場は4月22日の後も攻撃対象となり、6月5日6月15日に被弾している[28]。6月15日の空襲では神社港で火災が発生[30]、近隣の一色町にも着弾、死者14人と伝えられる[28]6月16日17日にも連続して爆弾が投下され、続いて25日B-29数機が爆弾投下[30]26日に宇治山田市船江町に爆弾が投下された[31]

緊迫した7月[編集]

7月に入ると、より差し迫った状況となり、警戒警報が101回、空襲警報が24回発令された[8]7月2日には警察三重県内の各神社に対して、延焼や冒涜のおそれのない場所へのご神体の常時保管または空襲警報時の移送を通達した[13]伊勢神宮ではそれ以前からご神体の疎開が計画されており、外宮では高倉山古墳付近、内宮では正宮の奥に疎開場所が設けられたとされるが、詳細な場所は神宮のごく限られた人のみ知る機密事項であり、神域内であるため戦後も調査できておらず、未解明である[13]。また実際にご神体が疎開されたかどうかも不明である[13]

7月24日には爆弾投下により外宮外苑で火災が発生している[32]

7月28日・29日、最大の空襲[編集]

 
清野井庭神社(2013年〔平成25年〕)

7月27日夜、アメリカ軍は空襲を予告する伝単を宇治山田市をはじめ、津市や愛知県一宮市岐阜県大垣市青森県青森市愛媛県宇和島市に撒いた[33]7月28日午後11時10分、空襲警報が発令され、まもなく志摩半島南方から約60機のB-29が飛来し、津市への攻撃に向かった[34]。その後、日付が変わって7月29日午前1時頃、山田駅から西側の宇治山田市街地に6ポンド油脂焼夷弾[34]1万数千発も投下した[5]アメリカ軍の資料によると、この時B-29は93機で焼夷弾734.6tの攻撃を仕掛けたとされる[34]

被害は市街地面積の5割に相当する27,751.35m2に及び、全戸数の3割に相当する4,517戸を焼失、総人口の35%に相当する22,600人が罹災した[注 10]。被害を受けた施設は主要なものだけでも、山田駅神宮皇學館大学・大蔵省専売局山田出張所・三重県度会地方事務所・三重県立宇治山田中学校三重県立宇治山田商業学校宇治山田市立厚生国民学校宇治山田市立宮山国民学校・須原大社など多数あり[5]、特に山田駅・宇治山田中学・厚生国民学校・度会地方事務所は焼失した[34]

神宮関係施設では神宮司庁宇治工作所・旧内務省神宮関係施設造営所・清野井庭神社大間国生神社神宮徴古館が被害を受けた[5]

外宮では、正宮の御垣内[注 11]にも焼夷弾が降り注いだが、御垣内が火に包まれることはなかった[36]多賀宮では御階が燃えたものの、警備隊が体をこすりつけて消火し、無事であった[36]。後に外宮宮域から搬出された焼夷弾の残骸はトラック3台分にも及んだという[36]。また外宮の別宮である月夜見宮は、周辺の住宅がすべて焼失した中で、軍隊による懸命の消火活動と、萱葺屋根に突き刺さった焼夷弾が不発だったため、社殿だけが焼け跡に建っているという状態であった[37]。しかし宿衛員嘱託は空襲で命を落とし、宮掌が大火傷を負った[38]

内宮では40機ほどの編隊でアメリカ軍機が神域に迫り、次第に照準が正確になっていったが、神域に差し掛かったところで焼夷弾五十鈴川対岸の山に落下し、内宮に戦火が及ぶことはなかった[36]。この「奇跡」により内宮には被害はなく、神職伊勢神宮の「ご神威」に涙したという[36]倭姫宮は宿衛屋[注 12]が焼失したが、本殿は無事であった[38]

8月の空襲と終戦[編集]

7月29日の大空襲後も8月1日夜にB-29約25機が来襲、8月14日にも宮後町や山田駅前に小型爆弾の投下や機銃掃射が行われた[40]。そして翌8月15日正午に玉音放送があり、日本は終戦を迎えた[41]伊勢神宮では幹部が神宮司庁正庁に集まり、嗚咽を漏らしながら玉音放送を聞き入ったと伝えられる[42]神苑に展示されていた日露戦争の戦利品である大砲などは、軍隊が徹夜でバーナーで焼き切り、埋められた[43]

 

また、FBのお友達で母方の祖父と父方の祖父が同じルソン島で戦死したときていたのですが、その記録をだどるため県庁から取り寄せたそうです

陸軍は各都道府県庁、海軍は厚労省に記録が保管されているそうです退役もしくは戦死した時の本籍の都道府県にあります

実物を拝見させていただき、驚きました 入隊し時から移動そして戦死した場所まで詳細に記録されているのです

 

それからさらに驚きなのが、別FBの友達の祖父とも同じ地区の出身だったという事も分かり凄いつながりがあることが判明しました

 

だから、今生きている自分はご先祖の一人が欠けても存在しないわけで、今の私たちの豊かな生活があるのは、ご英霊のお陰なのです

未来の日本の繁栄を願って散華なされた英霊に今の日本をみてどう思われるでしょうか 僕は大変は申し訳なく思っています

 

国防軍もなければ、経済力も年々落ちてきており、一体日本に何が残されているのでしょうか

発展途上国と属国の道しかないのでしょうか

 

いい加減、目覚めてほしいと願ってやみません

 

是非、靖国神社にお近くの方は秋の例大祭に行っていただきたく、また遠く方々はお近くの護國神社に参拝に行っていただきたいと思います

 

まずは「英霊たちに感謝を申し上げる」その心を取り戻すことから始まると思います

 

最後までお読みいただきありがとうございます

 

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